自己愛

 著者の経験では1985年頃から非定型的な抑うつ症状を呈する青年が増えてきており、この増加傾向は現在も進行中である。これらは操作的診断のⅠ軸診断では大うつ病であるが、抗うつ剤の治療反応が悪く、その病前性格は従来のうつ病がもっていた自責的傾向や責任感の強さ、几帳面、律義、負い目回避というような執着気質やメランコリー型を刻印する性格標識を持たず、「落ち込む」と表現する数分から数十時間という短期に、しかも頻回に繰り返される激しい抑うつ症状、リストカットや怒り、引き籠もり、対人操作、対人的孤立あるいはしがみつきなどを呈する人たちである。彼らはⅡ軸診断では自己愛性人格障害境界性人格障害、あるいは特定不能人格障害とされる。
 摂食障害も変化し、かつてのような定型 anorexia nervosa という極端な拒食を貫き通す人よりは衝動性が亢進し、過食と拒食を繰り返し、下剤濫用や自己誘発嘔吐、利尿剤の使用、あるいはアルコール症を伴うタイプが増え、リストカットや大量服薬などの行動化を伴うケースが増えていることはすでにいくつかの報告がある。都市型クリニックでは今日、内因性のうつ病よりもこうしたタイプのうつ病が主流を占めているのではないだろうか。
 こうした青年や少年を診ているうちに、彼らにいくつかの共通点があることに気がつき始めた。それは挫折に対する極端な脆弱性、自尊心の傷つき易さ、他者によって客観的に評価されうるような外的価値しか信じることが出来ないこと、all or nothing というようなうまくいっているときにはがんばれるが、うまくゆかなくなるとすべての努力を放擲してしまうこと、刹那的であること、地道な努力が出来ないこと、結果が得られないことには関心が持てないことなどである。そのために思うとおりにならない現実に直面したときに抑うつ、怒り、引き籠もりなどを呈したり、やせ願望、リストカットなどの行動化を誘発するようになる。

外的価値

 価値とは「よいものとして認め、その実現を期待するもの」であり、価値観とは「いかなるものに、いかなる価値を置くかという個人個人の評価的判断」をいうとすれば、外的価値は他人の評価を通して見える価値である。それに対して内的価値とは他者を介さずに自己にしか見えない価値であると定義する。(中略)
 外的価値が優先する価値観は、他者から見て「すごいな」と嘆声の声をあげられることが重要なのである。したがって、その価値観は一般基準から見て必ずしもポジティブなものに限らない。価値観の反転が起こり、通常では否定的な価値を持つようなものでも、人が容易にまねすることが出来ないこと人があっというようなことに価値があるという特徴がある。「ネガティブでもポジティブでも、特殊であることが大事なのです」「福岡の少年バスジャック事件は僕にはよく分かります。あれはかつての僕だった。ポジティブに生きられないなら、ネガティブでもよい。自分が他の人と違った、神から恩寵を受けた人間であり、何でも許される万能者であることを示したかったのだと思います」というような価値観である。

自己愛性人格構造との関連

 抑うつを呈して来院する青年の多くは自己愛性人格障害ないし傾向を持つ人たちである。彼らに共通しているのは、等身大の自分がないということであり、「思い描いている自分」と、思い通りにならなくなった現実に直面して転落した「取り柄のない自分」の二極に解離した自己構造を持っている人たちである。彼らは思い描いている自分が機能しているときには我々の前には来ない。しかし、人生は思春期を過ぎると、思うようにならないことがしだいに多くなるものである。早い人では中学の人間関係や成績、あるいは容貌や体型、遅い人では社会に出てからの職場の人間関係や自分への評価が挫折や傷つきの原因となる。そこでかろうじて維持してきた「思い描いている自分」が破綻して一気に「取り柄のない自分」に転落することになる。健康な人は思い通りにならない事態に直面しても、「もう少し時期をみて」とか「少し準備不足だったかな。もっと基礎からやらなくては」とか、「ちょっと高望みだったかもしれない。少し目標を下げよう」とか、「無理かな。それは断念して別の目標を探そう」「もっと着実に積み重ねてゆこう」というように、いったん引き下がって現実的な解決方法を見いだすであろう。しかし、自己愛性人格構造を持つ現代の青年達はこうした現実的な選択が困難である特性がある。それが可能になるには中心となる自己、すなわち等身大の自己という真の自己が存在することが前提になる。思い描いている自己は誇大的自己であり万能的自己であるから、そのような選択ははじめから不可能なのである。「そうしたことは自分が許さない」といった方が正確であるかもしれない。
 思い描いている自分が破綻したときの反応は以前の論文で指摘したように、怒り、引き籠もり、抑うつの3徴である。これに強迫が加わることが多い。引き籠もりは栄光ある撤退であり、取り柄の無くなった自分が抑うつ的自己である。誇大的自己が傷ついたときの反応は怒りである。彼らは思い描いている自己を維持するために、常に周囲の賞賛を要求し、自分が他とは一線を画するような存在であることを維持しなくてはならない。しかしこれはあたかも着陸装置を持たない飛行機のようなものである。羨望の対象となり続けうるための燃料がつきれば、その飛行機は墜落するしかなくなる。
 彼らが思い描いている自分であり続けなければならないのは、内部の大きな自己不信があり、脆弱で傷つきやすい自己を抱えているからであるが、そうした自己はどのようにして形成されるのであろうか。
 共通して彼らは幼児期に親から欲しいものは何でも与えられたが、いくら努力をしてもポジティブな評価が与えられず、あるいは子どもが無力であることになぶるような打撃を虐待と意識しないまま加え続けてきた生活史を持っている。また無条件の愛を経験していおらず、期待に応えなくては愛されないという恐怖を抱き続けていた人たちである。養育の早期切り上げも特徴的である。すなわち、幼いときに十分に子どもでいられず、自己は常に無力で、無条件に愛されるきょうだいや周囲に人間に対する嫉妬と羨望の感情を持って育った人たちである。彼らは自分の無力感を、成人の言語を使って説明すれば、「自分は人と際だって違う存在だから、愛されないし、愛されなくともよい」と思うことによって自己を守ろうとするのである。ある患者はこのことに対して「自分は子どもの頃に何か引き合わない取引をしたように感じる。多分、甘えることと引き替えに、誇りを手に入れるような」と語っている。誇大的自己は自分の無力性を覆い隠し、誇大的な自己愛的輝きによって現実の自己の不安を防衛する。
 これは彼らの両親が愛情に乏しいとか冷淡であるとかいうことを意味しない。むしろ子どもに人よりも強い愛情を持って育てたという自負を持つ人たちである。しかし、その愛の実体は彼らなりの愛し方、自分の都合に合わせた愛し方であり、子どもに対する期待は自身達の欲望の投射に過ぎないという特性があった。自分の子どもが他の子どもと違う、優れた子どもであって欲しいと願う人たちである。彼らの親たちは絶対に「悪かった」とか「ごめんなさい」と言うことができない人たちであり、そういう意味で相手の気持ちを汲むという共感性は極めて乏しい人であるという面もある。両親はきまって結果を求めた。そして結果に応えることが彼らの自己愛の輝きを増す働きをしていた。彼らにとって等身大の自分は受け入れがたい自分である。それは平凡で、並みで、普通であることを意味し、彼らが最も受け入れがたい自己である。
 そうした自己はいくつかの共通した特性を持っている。すなわち、彼らは結果主義であること、外的価値観しか信じないこと、all or nothing の傾向を持ち、うまくいっているときには人一倍がんばれるが、いったん思う通りにゆかなくなると一切の努力を放棄してしまう傾向、そのために自分の本当の力を発揮することが困難になる傾向、将来の不安に対してはあてもないのにいつか一発逆転することが起こってうまくゆくという期待を持っているということ(そのために刹那的になること)、したがって地道に努力することが出来ないこと、批判や忠告は傷つきやすい自尊心を痛撃すること、それに対して激しい怒りを感じること、挫折には引き籠もることによって自分の自尊心と栄光を守ろうとすること、自分を愛せないこと、自分を嫌いなことなどである。(略)